LGBTQ+、僕らは生きてる

まあ大体こんな更新ペース。こんにちは、七です。

先日、LGBTの理解増進法案について、このような記事が出ていて、TLで話題になっていました。

TBSニュース:「いろんな副作用も」LGBT理解増進法案 自民部会で紛糾 了承見送り

この記事によりますと、

法案の目的には「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」と明記されていますが、出席者によりますと、「法を盾に裁判が乱発する」との意見が相次いだほか、「道徳的にLGBTは認められない」「人間は生物学上、種の保存をしなければならず、LGBTはそれに背くもの」などの声も上がり、法案に反対する議員が大勢を占めたということです。

TBSニュース:「いろんな副作用も」LGBT理解増進法案 自民部会で紛糾 了承見送り

これを見たとき、まあ、なんかそうよねという気分というか、失笑というか、そんな気分でした。

全部論破できますけどねっていう。法を盾に裁判が乱発する→権利を主張させると面倒ごとが増えるから蓋をしておけということか、とか、道徳的に認められない→人権教育は道徳の分野でも扱うでしょう? とか、生物学上、種の保存をしなければならず→生物学を学んでからどうぞ、とか。

すでに僕らは生まれて社会の中に生きている。だのにまるで僕たちの存在が罪のように言いますね。

その発言こそが「差別的」であること、そういうことを大々的に言うことができる社会だからこそ「差別は許されない」という文言が加わったこと、知らないのは構わないけれど、知ろうとしないのはどうなんだろうと。

まあ文句を言うだけではあれだということで、一当事者として発信をしてみるわけです。

少し前に僕はこの記事を読んで、なるほどなあと納得していたので載せえておきます。

現代ビジネス:「人権」と「思いやり」は違う…日本の教育が教えない重要な視点

この記事より一部抜粋しますと

この「排除・差別」を、制度的に分析していくことはとても重要な課題であるが、ここで着目したいのは、学校において、「思いやり」や「やさしさ」といった心の問題として「差別」問題が扱われようとしている点である。

(中略)

日本国憲法にある通り(14条)、差別は「政治的、経済的又は社会的関係において」発生する。したがって、その関係のあり方を分析し、変えていくことでしか差別問題は解消していかない。これは、「人権教育」の課題である。それは、「人が自らの権利を知り、権利の主体として、それを実現するために行動」することが、「人間性の回復であり、社会を変えることにつながる」ような教育のことである。

つまり、人権教育がめざしているのは、構造的に問題を把握することであり、それに基づく社会変革なのである。

(中略)

人々の暮らしをどう理解していくか、それを踏まえて社会のどこに問題を見出し、どのように変革していくかを問うことになる。たとえば、人権や権利を守るためには、どのような法制度が必要なのか、と問うことになるだろう。

現代ビジネス:「人権」と「思いやり」は違う…日本の教育が教えない重要な視点

教育分野には疎いので僕はそこを論じることはできませんが、教育においてだけでなく(というよりこの教育を経たからかもしれないですが)、現代社会も社会的強者(マジョリティ)が社会的弱者(マイノリティ)を思いやろう、歩み寄ろう、こういった風潮があるように思います。セクマイに限らずね。個人個人の「思いやり」の問題に押し込められがちな気がします。

でも、僕はそうじゃないと。だからこの記事に賛同したわけですが。

セクマイに対して嫌悪感を抱く人はいなくならないだろうと思っています。だけどそれは多分僕も同じで、どこかで「こういうもの/人は苦手だ」と感じることはあって、その感情をどうにかしようなんて、まあまず無理な話でしょう。

だけどその感情を言動に移すかが問題になってくる。個人的に受け入れられないこと、もしくは「受け入れられない」と感じる人がいることを理由に、人を蔑ろにしてはいけないんだと、例えば公の場で平気な顔して「道徳的に認められない」と口にする、そういう行為は許されるべきではないと、差別禁止を定める制度が必要だと思うわけです。

法治国家ですからね、定めることが大きな意味を持つ。

制度、法を根拠にして、これまで差別されても黙していた人たちが、立ち上がることができるわけです。それを「裁判の乱立」なんて言葉で片づけられたら、たまったもんじゃない。

道徳的に背く行為を、法に背く行為を、僕は日々しないように、なるべく善良であるようにと、生きているつもりです。だのにどうして差別されなければならないのでしょう。僕が子孫繁栄に寄与できるのにしないからでしょうか? ならば問いますが、人間以外の生き物たちは子孫を残さない個体を排除する制度を設けていますか?

いや、現代にセクマイ排除の制度はないですよ。ないですけど、セクマイの存在を前提としていない制度は、消極的にセクマイを排除しているとも言えると思うわけです。

僕はある場面ではマイノリティですが、ある場面ではマジョリティです。そのとき、たぶんマイノリティの人のことを、きちんと理解することはできていないんだと思います。もしかしたら心のどこかで許容できない気持ちさえあるかもしれません。

でもその人が明確に他者の権利を侵害しているのでなければ、その人は個人として守られるべきです。この「べき」は感情論ではなく、「人権」という歴史的に人類が獲得してきた権利(という概念)に依拠しています。

札幌地裁の同性婚意見判決では、「法の下の平等に反する」という点が違憲とされていましたね。少なくとも、僕は好んでマイノリティになったわけではないし、いじめは受けてこなかったものの、生きづらさを感じたことはあります。ただ等しく生きたいと、僕はそう思うだけです。

こうして社会的に議論されるようになっただけ、LGBT問題は前進しているとは思います。願わくば、さらに先に進みますように。

これはあくまで僕個人の考えですが、当事者の一人として発信しておきます。

それでは。

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