夜空

月になりたいと思った

コーヒーを飲もうとしたら、冷蔵庫に牛乳がなかった。僕はあまり苦いのは好きじゃない。ブラックで飲むのは御免被りたいと思う。

一二月の十時過ぎの寒空の下、わざわざその一杯のためだけに、コンビニに行く必要があるだろうか。暫く考えたが、カップにもう入れてしまったインスタントコーヒーの粒から、安っぽいけど僕が好んで飲んでいるそれの匂いがして、どうも行かなければ気が済まない気持ちになった。小さなため息を一つ吐いて、コートを羽織ってマフラーを巻く。

月になれればいいと思った

冬の夜は寒い。分かり切っていたことなのに、僕は小さな後悔を抱えて、ぎゅっと身を縮める。「寒い寒い言うから寒くなるんだよ。思い切って背筋を伸ばせば、案外平気だぜ」。友人の声を思い出して、その通りにして歩く。だからと言って、寒くなくなったかと言うと、それはどうだろうという気がする。

だけど、冬は嫌いじゃない。空気がしんとしていて、澄んで引き締まっている。冷たいけど、清々しい。それに、空が一番きれいに見える季節じゃないか。

そう思って空を見上げると、月も星も見えやしなかった。代わりに闇の中に、雲が天井みたいにずっと広がっていた。

夜空を見れば月を月と分かるように

誰か一人にとってかけがえのない存在になれれば

それで十分だと思った

地球にいる限り、本当の暗闇は味わえないんだとラジオで聞いた。なんでも大気とか水蒸気とかで結局光が散乱してしまうからなんだそうだ。少なくとも、日本の街の光は散乱してばかりだ。時々、夜の曇り空を見上げると、確かに暗いのに、なんだか雲が薄ら赤いような色に染まっている。あれも全部、町明かりを雲の中の水分が反射しているからなのだろうか。

本当の暗闇というやつをこの目で感じてみたいと思う。それが無理ならせめて、太平洋の真ん中に船を浮かべて、寝転んで空を見上げてみたい。

その暗闇の中では、さぞ多くの星が見えることだろう。降ってくるような星と、透き通るような暗闇に、吸い込まれてしまうかもしれない。

星一つ一つは 別個のものと認識されない

たった一つ 大きく 輝いているから

だから「月はきれいだ」と言われるのだ

そんなことを考えているうちに、商店街に出た。それまで歩いていた住宅地では街灯がまばらにあるだけだったから、比べるとここは随分まぶしい。それまで物思いにふけっていた頭が、その賑やかさで現実に無理やり引き戻されたみたいで、その差に少し混乱した。

ちかちかする目で商店街を少し下って、ようやくコンビニに到着する。ガラス張りの壁を通過する真っ白な蛍光灯の光は、一層まぶしいものに思えた。駐車場、なんてぽっかりあいた空間の後ろに立っているせいもあるのだろうか、やっぱりこのコンビニは周りにあまり溶け込んでいない気がする。

自動ドアがその名の通り自動で開いた。中は外から見るよりずっと明るくて、なんだか頭がくらくらして、距離感が少し分からなくなった。

つまり 月になりたいという言葉は

誰かの「唯一絶対の存在」に

なりたいということだった

「いらっしゃいませー」

間延びした、やる気のない挨拶が聞こえる。僕はその声になんの反応もしないし、言った方も別に気にする様子もない。ともするとあれはただ言っているだけで、やっぱり挨拶じゃないのかもしれない。

目的の物を手に取る前に、無意味に雑誌置き場へ寄る。何となくだけど知っている漫画が表紙になっている少年誌を見つけて、「ふーん」とだけ思って、そこを通り過ぎた。

それはきっと

独占欲の塊

牛乳を一本、人差し指に引っかけて、レジに向かう。

僕は無言のままレジに牛乳を立てると、店員は「いらっしゃいませ」と言って、バーコードを読み取る。「百二十六円です」。僕は財布から百三十円を出して、台の上に転がす。その隙にもう、牛乳パックはビニール袋の中に隠れている。「百三十円お預かりします。四円のお返しです」かたかたと、指が素早くレジを叩く。一円玉四枚とレシートを受け取って、ビニール袋を引き取る。

「ありがとうございました」なんて、形だけの声が聞こえて、僕はやっぱり彼の声に一切反応しないまま、そのコンビニを後にした。

そんなぎらぎらした存在は

やっぱり僕はいやだ

それは僕自身 自由でいたいから

店を出ると、当然ながら寒さが身に染みた。「さみい」と呟いて、また背を丸める。

レジの前に、ケースに入った肉まんとか、つゆに浸ったおでんとか、おいしそうなものが並んでいた。いつか機会があったらきっと買おう。寒いときは、温かいものが一番だと思う。

右手に提げているビニール袋が、僕の歩く足にぶつかってがさがさと鳴る。商店街を離れると、その音が静けさの中に響いているのが分かる。一度自転車が前を横切ったが、それが行ってしまうと道には誰もいなくなって、僕の足音とその音の他に何も聞こえなくなった。

薄明るい街灯が、ぼんやりと僕を照らしていた。

なら何になりたい

という問いに

僕は捻りもなく 星と返そう

そういえば、冬は夜と似ている。

冬は基本的に閉鎖的だ。どのドアも窓も、必要のない限り、この空間から少しでも空気を漏らすものかと必死に閉じられている。今着ているコートも、マフラーも、僕をより外界から隔絶するためのものでもあるのかもしれない。

閉鎖的になると、外に気を向けなくなって、ひたすら中に向かうだろう。そうすると、外との境界はあまり問題じゃなくなる。そして境界が意識に浮上してこないなら、内向的になってものを考えている僕にとって、それは意味を持たないものになる。

境界がなくなる、その意味において、夜と冬は似た性格をしている。

だから、その二つは相性がいいのだろうか。

太平洋の真ん中でやっと見えるくらいの

あってもなくても分からないような

そんな星がいい

境界がぼやけた世界は、居心地がいいと僕は思う。確固たる存在でい続けなければいけない昼より、曖昧なままでいていい、僕だけの世界に閉じこもっていていい夜は、時としてたまらなく安心する。

冬の夜に、星を見る。それはなんだか、とても贅沢なことのように思えた。

「冬のうちに、星がきれいなところへ行こう」

誰かがきれいだと言った

その景色の一欠けの星がいい

普段は見えない星でもいい

僕は街灯の下で、はぁ、と広がるような息を吐いた。その息は、微かに白みを帯びて消えた。

「そのときは温かいコーヒーも一緒に飲もう」

ちっぽけでも確かにそこにあるのなら

誰かに何かを与えられるなら

「きっとそれで十分だ」

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